スズキ トラックに関する中古車(99/100ページ)

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スズキ トラックに関する旅行記

桃源郷フンザを訪ねてカラコルムハイウエイを走る & パキスタ...

「欧米で近く攻撃開始」 パキスタンのタリバン運動(2010.9.4 09:56)
http://sankei.jp.msn.com/world/america/100904/amr1009040958004-n1.htm



2000.5.8
フンザへの旅は初日にラワルピンディーからペシャームまで236kmペシャームからチラスまで206km、合計442kmを実走行時間9時間で踏破しようという長丁場のバスによるドライブで始まった。

バスに乗り込もうとホテルの前へ出て最初に目に入ったのは、銃を肩にした二人の兵隊である。警察かなと思ったが、銃を携帯しているのが物々しすぎるので軍隊かと聞いてみるとそうだと言う。何故軍隊がホテルの警備をしているのかと問うと、1999年10月の政変以来、軍部が主要なホテルや企業や政府機関に監視役として派遣されるようになったという。兵隊が目付役として駐在しているだけで、従業員の規律がよくなり、勤務中の私用や私話がなくなったし、賄賂が減って業務効率が向上したというのである。ガイドの話では検問所も軍隊が監視のため駐在するようになって、車がスムーズに流れるようになったし、民衆も今のところ軍事政権を歓迎しているという。政変以前のシャリフ政権の金権腐敗政治がそれほどまでに末端の規律を弛緩させていたとは驚きであった。シャリフ元首相は最近終身刑が確定したが、人の上に立つ指導者が堕落すると国を滅ぼすことになるという実例を見る思いであった。と同時に軍事政権がいつまでも続くと、ミャンマーや北朝鮮のような密告という人間のおぞましい性向を助長し、やがて民衆を新たな不幸に陥れるようになるのではなかろうかという危惧の念が頭を掠めた。

次に目に入ったのは赤や青色で派手に装飾した霊柩車の往来である。霊柩車と思ったのは実はトラックであった。走っているトラックはすべて赤、青、黄色、緑色などさまざまな色を使い、思い思いの絵柄で華やかに飾りたてている。しかもトラックは背高く荷物を積載しており、過重積載ではないかと思われるほどである。また小型トラックの荷台には人を満載し、後部バンパーを加工した踏み台にも人が立ったままでぶら下がっているだけでなく、天井にも何人かへばりついている。

バスはペシャーム目指して出発した。走っている道路の両脇にはユーカリの木が植えられている。この道はマルコポーロも通った絹の道であり現在はカラコラムハイウエイと呼ばれている。この道路は北京からカラチまで7,520キロメートルを結んでいて、1976年に全線開通した。開通までに十年を要した大工事であったという。

このカラコルムハイウエイをひたすら北上し、バットグラムと呼ばれる集落あたりまでは比較的平坦な道が続き周囲に広がる田畑は緑豊かである。ハイウエイとはいうものの、舗装が施されているというだけの道でところどころ穴があき、補修も完全には行われていないがたがた道である。往復一車線宛のこの道路は専ら自動車が走行しており自転車やモーターバイクは殆ど見かけられない。たまに農業用トラクターが走行していることもあるが一番多いのは満艦飾に飾ったトラックである。たまに山羊や羊の群れが悠然と道路を歩いていることもある。行き交うスズキと呼ばれるタクシーには鈴なりのものもあれば、スカーフを被って顔を隠した若い女性が幌の陰にひっそりと、相乗りしているものもある。スズキとはスズキの軽トラックのことであるが、この国では荷台に腰掛けを取り付けて幌を被せ、人員輸送のために転用されているタクシーを意味する。

二時間ほども北へ向かって走行し、バットグラムの集落を過ぎた頃から道路は次第に山道に入り、周囲は松の木がまばらに生えている山の風景に変わる。やがてインダス河と合流し、河岸を曲がりくねりながらも、どこまでも北へ遡及していくにつれ、道は険しくなっていくが、川沿いに河岸段丘が開けてきて、河の両岸に丹念に手入れされた棚田が現れる。ここはパターンと称される集落である。棚田には水が張られて光っているものもあれば、麦が実って黄色く光っている畑もある。田植えが終わって青々と繁っている水田もある。何枚もの小さな区画の段々畑が山腹を扇状に広がっていく景色は美しい。しかも青田ではスカーフを頭から被った女性が草取りをしていたり片方で水牛二頭に鋤を引かせた農夫が水田を耕していたりするかと思えば、他方では農夫が畑を鍬で耕していたりする。日本でも50年前には見られた長閑な田園風景が静かに息づいている。瀬戸内海の島々で一昔前に見られた段々畑以上にアジア的な高度集約農業の原風景が残っていた。この集落では手前の道路から河を隔てた対岸の道路までおよそ一kmほどの距離にワイヤーを張り、籠をぶら下げて人員輸送をしている。6人が定員の村営ロープウエイである。ロープウエイの下には河岸段丘の棚田が広がっている。

パターンの集落を過ぎると次第に周囲の様相が厳しいものに変わってくる。インダス河は断崖の遙か下を激しい勢いで流れており、周囲の切り立った山々には草木一本生えていない荒涼たる光景に変わる。しかも水の色は丁度セメントを水に溶かしたような灰色をしており、岩石に激突して泡立つ波の色さえ灰色である。更に通っている道路は岩盤を爆破して切り開いたもので、頭上の岩盤にはひび割れが生じていて、今にも巨石が落下してくるのではないかという恐怖にかられる。その上、道幅は狭く路肩が崩れている箇所さえあるので、対向車と行き違うときには思わず手足に力が入り、冷や汗が背筋をしたたり落ちる。

インダス河とは当地で使われているウルドウ語で「危険な河」という意味の通り、河の流れはとても速い。不思議なことに河が流れているにもかかわらず、河岸には緑が見当たらない。インダス河には魚さえも住んでいないというから不可解である。何故かと同行の人達と議論になったが、微粒子を含んだ水では魚も鰓に砂が溜まり呼吸ができなくなるからではないかという結論に達した。またこの河には危険で渡し舟も使えない。

このカラコルムハイウエイでは軍隊から派遣された兵隊が二人一組でブルトーザー1台を守って野営しているのを目撃した。崖崩れが生じたときには直ちに駆けつけて応急措置をとるためだという。ことほど左様に崖崩れの多い道路なのである。
たまに道路沿いに生えている街路樹は植樹されたもので、水の少ない場所に強いディヤァールという木である。

草木の全然生えていない荒涼とした山岳と遙か断崖の下を激しく流れるインダス河を窓外にみながら進んで行くと突如として、緑の段々畑が現れ立木も何本が立っていて、石組みと土で作った民家が畑を見守るロケーションでうずくまっている場所が現れる。砂漠でいうオアシスである。
緑地と荒蕪地を交互に眺めながら高度は次第に上がって行く。      
やがてパキスタンでは第二に高い山ナンガーバルパット8125mが見えてきだした。

 ところで、パキスタンで一番高い山はK2の8611mであるが、この山はエベレスト8848mに次いで世界第二の高峰である。パキスタンには8000m以上の山が57山もある。6000m以上8000m未満の山が105で、4000m以上6000m未満では600もありこの中には名前のついていないものがかなりあるという。まさに高山王国である。

チラスのホテルでは久しぶりに充分の睡眠を取り、朝8時半にはフンザへ向けて243kmの旅程を五時間で走破する予定で出発した。窓外に見える光景は昨日とあまり変わらない。

時に切り立った山間の谷を流れ落ちてくる雪解け水の流れは、色も澄んでいて白い泡をたてていた。この流れがインダス河に流れこむ箇所だけは色が青くなっているが、すぐに灰色に呑み込まれてしまうのである。また荒涼とした岩肌の山の中腹に鉢巻きを巻いたように緑色の帯が横に長く延びているのが見えることがある。これはパイプラインを敷設して送水している所だという。パイプから漏水して植物が育っているのである。このような景色を見ると水が如何に植物にとって大切なものであるかが如実に理解できる。

緑地と荒蕪地が交互に現れる光景を見やりながらフンザ目指して高度はますます上がって行く。

そのうちインダス河にギルギット川が合流する地点に到着した。ここはカラコルム山脈の山中を源流とするギルギット川とヒマラヤ山脈の山中を源流とするガンジス河が合流してガンジス河一本に合体する地点である。北に向って右側にはヒマラヤ山脈、中央にはカラコラム山脈、左側にはヒンドゥクシー山脈が三方向から競り合っている地点でもある。天気は晴朗で空は抜けるように青く、外気温は四十度近いが空気は乾燥していて汗をかかない。高度は1500m位であろうか。この地点で暫し休憩してから険しい道を走行するうちに木立が現れ、やがて小高い山に星と月とマルコポーロシープの絵模様が刻まれているのがみえるようになるとギルギットの集落である。ギルギットの町には小さな飛行場もあり山中の交通の要衝になっている。ギルギットの町中をしばし散策してから再び車中の人となりフンザへ向けて出発した。

途中ラカポシビューポイントで小休止した。この地点の海抜は千八百mであり、高さ7788mのラカポシ登山のペースキャンプが敷設される集落内にあるビューポイントである。実際のベースキャンプはこの場所より更に600mほど下った海抜1200m地点に敷設されるので、登山家にとっては実登山距離が世界一高い山になるということである。天気は快晴で美しい山の姿に暫く見とれていた。氷河らしきものも山の裾に遙に見えている。

 再び高度を上げながらバスはフンザへ向かって進んで行く。次第にポプラの木が多くなり杏の畑が山腹に開けた所がフンザ地方のカリマバードであった。既に高度は2500mになっている。宿泊したビューホテルはインダス河の岸に近い所であるが、屋上に上がって見渡せば四囲の山々を展望することができる絶好のロケーションである。今宵は桃源郷でどんな夢を見るであろうか。

カリマバードのホテルの屋上から四囲を眺めると北側にはお結び型のフンザピーク、細く尖ったレディスフィンガー、雪を被って尾根が波うつウルタル一とウルタル二。東に目を転じれば遙か遠くに、雪を被ったなだらかな姿を見せるパタレーピーク。南にはちょっとだけ顔を出したゴールデンピーク、デュラーレン、ビューティースリーブ。西には右下がりの尾根の見えるラカポシと目立つものだけ拾ってもこれだけある。このほかに名もない山々が群集しているのが眺望できる。南側の山々の麓は剥き出しの岩肌を見せ、切り立った断崖の下に広がる砂原にはインダス河が激しい水勢で流れている。そしてゆるやかなスロープになった段丘にはポプラの林や杏林と麦畑が広がっている。よく見ると灌漑用水路が四通八達しているのが判る。このような山岳地帯ではたゆみなく水の管理が丹念に行われているのである。人の営為があってこそ豊かな緑が維持できていることが判る。人々は坂道をとことこ歩いていて自転車やモーターバイクに乗る人はいない。今は緑一色であるが、杏の花の咲く頃はまさに桃源郷であるに違いない。

ホテルの洗面所で水を出してみて驚いた。灰色なのである。いくら放水してみても色はそのままである。備え付けのタオルは薄炭色に染まっている。これがフンザの普通の水である。現地の人達はこの水で顔を洗い、野菜や食器を洗い、洗濯をして生活しているのである。流石に飲み水だけはこの水を貯めて長時間かけて沈殿させ、上澄みを用いているようである。蛇口からふんだんに透明な水を何時でも利用できる日本人には想像を絶する体験であった。ここでは水とはこんなものだと思いこんでしまえば顔を洗い、洗濯するのも苦にならなくなるものである。肌はすべすべしてくるし潤いが感じられる。流石に飲料にはミネラルウオーターを使った。試しに上澄みを沸かした湯でお茶を飲んだり、持参したウイスキーを割って飲んでみたが腹を下すこともなく却って体調も良くなった。フンザが世界でも有数の長寿村である秘密は案外この水にあるのかもしれない。

翌朝、外が白みかけるのを待ってカリマバードの町中を小一時間散歩した。斜面を上へ上へと上がって行くと道の両脇に商店が立ち並んでいるバザールがあるが、早朝なのでどこも店が閉じられていて人通りもなく静かである。四囲の山々は時々刻々その色合いを変化させて美しい。雪山に朝の光が部分的に当たって輝いていたり、明るい所と陰の所がくっきりと対比されたりしているが日の出と共に次々と色合いが変わっていく。

やがて道路には働きに出掛ける人々がそこここに現れ車が迎えにくるのを待っている。 ちいさな集落なのでそれはちらほらといった感じである。多分道路工事の人夫として稼ぎに行くのであろう。幌をかけたトラックが賑やかにホーンを鳴らして近づいてくると器用に飛び乗っている。

通りがかりに顔を合わせた村人には誰彼となく「ハロー、グッドモーニング」と挨拶すると例外なくにこっと笑って「グッドモーニグサー、ハウアーユー」と返ってくる。年輩の人でもそうである。イギリス統治時代の影響なのであろうか。帰りに十三歳の少年と道々話しながら歩く機会を得た。彼は綺麗な英語を話す。私の話すブロークンの英語をよく聞いていてV音やTH音を正してくれたりした。彼の言ったことの中で英国人は傲岸で怒りっぽいのに対して日本人は紳士的で優しいから日本人のほうが好きだといった言葉が印象に残っている。

ホテルに帰ってからジープに分乗し、フーパー氷河の観察に出掛けた。狭く急な坂道をジープが曲がりくねりながら進んでいくと高度はどんどん上がるし、切り立った崖縁を通る時には冷や汗が背筋を伝う。やがてナガールの集落に到着した。ここでは杏畑と麦畑が広がっていて畑では女性達が草取りをしていたり流れで洗濯をしたりしている。鍬で田を耕している老人の姿も見受けられる。ここではゆったりと時間が流れている。傍らでは子供達が大勢屯して水遊びしたり走り廻っている。我々のジープが止まると子供達は物珍しそうに美しい瞳を輝かせながら集まってくる。田園風景と朴訥な人情が四囲の山々と調和して実に長閑で心安らぐものを覚える。

ここからはレディスフインガー、ウルタル、ゴールデンピーク、シャルダルピーク等の山々がカリマバードのホテルの屋上から見たのとは違った角度と大きさで眺めることが出来、山の姿の多様な美しさに感慨一入である。ナガールで美しい山の景色をカメラに収めてから、ジープはフーパービレッジに到着した。ここにはヒルトンという休憩所が設けられていて、飲み物のサービスが受けられるようになっている。縄張りの外には現地の大人や子供の物売り達が手彫りの石の像やガーネットや水晶、青石等を手にして待ち構えている。

暫し寛いだ後、見張らし台に登ると眼下にフーパー氷河が広がっている。氷河とはいうものの色は薄黒く、丁度都会地に積雪後、雪掻きをして道路脇に積み上げた雪山が溶けかけてアスファルトの粉塵と混じり合い薄汚れているのと同じような色をしている。このカラコルム山系の地質がしからしむるところなのか、灰色の勝った氷河である。

フーパー氷河の観光を終え再びカリマパードへ戻ってきて、山の中腹にあるバルティット城を見学に行った。

この城は760年程前に築かれたフンザ土侯の居城で1845年まではミールと称される土侯が住んでいたところである。土と石で外回りを固めた城の中の部屋はジェニパルという名の木材が用いられており、この地方の一般的な住居の造りになっている。明かりは天井の穴からとるようになっており、冬寒く夏暑い気候に対処できる工夫がなされている。

フンザはフンザ渓谷の北部一帯を領域とする地域のことで1974年まではフンザステートとして内政の一切がミールに任されていてパキスタン領内の自治国であった。従ってフンザの人々はミールに対しては今でも絶大な敬意を払っており、特別な存在と見做している。現に新しい立派な宮殿にはミールが生活していて村人の相談事にも気軽に応じているという。ミールの経営するロイヤルホテルはフンザ第一の高級ホテルである。

フンザの人々はイスラム教徒であるがイスマイリー派と呼ばれる独特の一派でモスクを持たず、言葉もブリシャンスキーという独特のものを使っており、この言葉は周囲から全く孤立している。このためフンザの人々はアレクサンダーの遠征軍の末裔であるという伝説がある。住んでいる人々もギルギット付近の人達とはどこか異なった風貌を備えているように見えるし、フンザ人はなによりも誇りが高い。

フンザ地域の属するカシミール地方はその帰属を巡ってインドとパキスタンの間で紛争の種となりやすいがそれは以下のような歴史的な事情が背景となっている。

つまりイギリスの保護領であったカシミールは、1947年にインドとパキスタンがイギリスから独立したとき、住民の大半がイスラム教徒であったのに土侯がヒンズー教徒であったが故に帰属をインドとしたことから紛争が始まり、インド・パキスタン間に戦争が起こって国連の調停で休戦となったのである。暫定の国境線が決められたままの状態が現在に至っているのである。

翌日は更にカラコルムハイウエイを北上し、パスー氷河とバトゥーラ氷河を見学に行った。氷河に近づくにつれフンザ川の両岸にそそり立つ山々には大昔に氷河が崩落した跡と見られる砂地の扇状斜面があちこちに見られ、堆積したモレーン(氷河が押し出した岩石や砂が堆積してできた山)がそちこちに築かれている。そしてその扇状の斜面の下部の砂原を直角に削りとるような形でフンザ川が貫流している。やがて左側の山間に氷河が流れ止まっているのを見ることができた。パスー氷河である。この氷河もフーパー氷河程ではないがかなり薄汚れた色をしている。

さらに北上してバトゥーラ氷河を見に行った。1905年に河口が現在位置にまで動いて氷河の長さは47kmに及ぶと言われているが、氷河の河口はモレーンになっており、素人目には岩石と砂の小高い山にしか見えずこの下に氷河が潜りこんでいるとはとても思えない。ただそうかもしれないと思わせるのはモレーンの麓に小さな池が二つほどできていて透明な碧色をしていることである。これが氷河湖である。微粒子で汚れた水も溜められて時間の経過とともに微粒子が沈殿して透明な色になっているのであろうと推測される。カラコラムハイウエイは丁度バトゥーラ氷河の河口のモレーンの裾野を通るように敷設されたのであろう。実際の氷河を見るためにはこの巨大なモレーンを乗り越えて険しい山を登っていかなければ見ることができないという。

帰りにグルミット村で一般家庭を訪問する機会に恵まれた。石組みと粘土で作られた塀の中はさらに迷路のような道が入り組んでおり、粘土と石組みで築かれた家の中へは小さな潜り戸を通って入る。入り口を入ると天井に明かり取りのある20畳敷程の広さの部屋があり、絨毯が敷いてある。部屋の真ん中には畳二枚分程の土間があり、冬には火を焚ける設計になっている。天井の明かり取りは煙突も兼ねているようである。台所兼用の居間の壁には皿が何枚も飾られていた。このような部屋が大小取り混ぜて一つの家が構成されているのである。たまたま家長の老人が病の身を押して出てきて伝統の楽器で一曲民族音楽を奏でて歓迎してくれた。パキスタン人は大家族主義で、祖父母、親子兄弟、孫までが夫婦ともども一つ屋根の下で生活しているという。現代の日本人にはとても考えられない生活がパキスタンの田舎では現実に営まれているのである。訪問した民家の隣の家は女系家族で妙齢の娘達が十人近くも塀の中から顔を覗かせて、我々一行を物珍しそうに眺めていた。恐らく大家族内の姉妹、伯叔母、姪という関係にある女性達だろうと思われる。

フンザの旅は大自然に没入し、身も心も洗われる思いのする至福の一時であった。

2010/09/04 11:09:51

東チベット・アムド周遊(7) 【同徳から拉加寺~瑪沁へ】...

8日目。

今日は、同徳から210kmの瑪沁(大武)まで行きます。
途中、ラプギャ・ゴンパ(拉加寺)に寄り道して向います。

・先ず、同徳からバスで国道の交差点へ行って、
・交差点で、10tトラックをヒッチして河北に行って、
・河北から、バスで拉加寺へ。
・拉加寺から、ヒッチで瑪沁に着きました。。。

----【日程】---------------------------------
D1 7/31 関空-北京(CA162)、北京-蘭州(CA1221)
D2 8/01 蘭州南站-夏河(BUS)【ラブラン・ゴンパ(拉卜楞寺)】
D3 8/02 夏河-同仁(BUS)【熱貢6月会=霍日加村、保安村】
D4 8/03 【ロンウォ・ゴンパ(隆務寺)、吾屯上寺、吾屯下寺、
   --- 郭麻日村、ゴマル・ゴンパ(郭麻日寺)】
D5 8/04 同仁-澤庫(乗合白タク)、澤庫-和日郷(乗合白タク)
   --- 【ホル・ゴンパ(和日寺)】和日-巴灘岔路口(バイタク)-
   --- -黄沙頭岔路口(ヒッチ)-貴南(ヒッチ)【ルツァン・ゴンパ(魯倉寺)】
D6 8/05 貴南-黄河大橋(BUS)【黄河キャニオン<羊曲>】羊曲-鉄蓋(ヒッチ)
   --- 鉄蓋-興海(BUS)
D7 8/06 興海-曲什安(乗合白タク)【黄河キャニオン<曲什安>】
   --- 曲什安-同徳(乗合白タク)【同徳市容】
D8 8/07 同徳-巴灘岔路口(BUS)-河北(ヒッチ)-拉加寺(BUS)
   --- 【ラプギャ・ゴンパ(拉加寺)】-瑪沁(ヒッチ)【瑪沁市容】
D9 8/08 瑪沁-白玉寺(BUS)【タルタン・ゴンパ(白玉寺)】
D10 8/09 白玉-班馬(乗合軽四)【ジャンリタン・ゴンパ(江日堂寺)、天葬】
D11 8/10 班瑪-色達(乗合軽四)【ラルンガル・ゴンパ(五明佛学院)】
D12 8/11 【ラルンガル・ゴンパ(五明佛学院)】
D13 8/12 【香根活佛寺、休暇村、市容】色達-金川(BUS)
D14 8/13 金川-成都(BUS)
D15 8/14 成都-関空(CA151)

2010/09/04 10:09:20

横須賀線の歴史的痕跡を探す ~大船-横須賀間編 明治領歌【再...

一般的に「横須賀線」とは東京-逗子-久里浜駅間の路線と思われがちですが、実際は大船-久里浜駅間23.9kmを称します。

帝國海軍は横濱に所在した東海鎮守府が敷地狭隘と当時横濱に雑居していた仮想敵国たる支那人に対する防諜上とを理由に明治17年(1884年)12月15日附で横須賀に移転し茲に横須賀鎮守府が改称成立する。

然し、現在と異なり当時は横浜から横須賀への道路は1本しか存在せず、且つ、当然未舗装な悪路で馬車通行すら難儀する状態だった為に、有事勃発時の人員物資等の緊急大量輸送に鑑み、初代横須賀鎮守府長官 中牟田倉之助(なかむた くらのすけ)海軍中将(天保8年(1837年)3月30日~大正5年(1916年)3月30日)より輸送手段改善が提議される。

更に、明治19年(1886年)6月22日附で陸軍大臣 大山 巌(おおやま いわお)陸軍大将(天保13年(1842年)11月12日~大正5年(1916年)12月10日)、及び、海軍大臣 西郷従道(さいごう つぐみち)海軍大将(天保14年(1843年)6月1日~明治35年(1902年)7月18日)の連署で内閣に請議書を提出し鉄道設置が要請される。



国立公文書館に於ける該保存文書に、


鐵道建設ニ関スル請議書

相州横須賀ハ第一海軍区ノ海軍港ニシテ造船所武庫倉庫其他病院兵営練習艦隊等ヲ置キ鎮守府之ヲ管轄シ艦船ノ製造修理、兵員ノ補充ヨリ兵器弾薬被服糧食等ノ供給ニ至ルマテ海軍艦船ニ在リテハ之ヲ此港ニ仰カサルヲ得ス。又観音崎ハ東京湾口ニ斗出スル岬角ニシテ砲台ヲ置キ其防禦ニ充テ、実ニ東京湾防禦ノ要路ニ当ルノミナラス其背面ニアル長井湾ノ如キハ敵兵上陸要衝ノ地ナルヲ以テ、是亦陸軍ニ於テ最大枢要ノ地トス。然リ而シテ東京ヨリ横須賀観音崎ヘハ独リ海運ノ便アルノミ神奈川又ハ横濱ヨリハ連岡其間ヲ隔テ、峻坂嶮路車馬ノ途ヲ通セス、陸運ノ便ナキヲ以テ平時ト雖トモ風波ノ為メ輒モスレハ運輸ノ途全ク断絶シ困難ヲ生スルコト尠カラス。況ンヤ一朝事アルニ際シテハ兵器糧食ヲ横須賀ニ運輸シ陸軍軍隊ヲ長井湾地方ニ派遣シテ敵兵ヲ防禦セントスルモ運輸ノ途ナキカ為軍機ヲ失スルコトナキヲ得ス可ラサルニ於オヤ。故ニ此際汽車鐵道ヲ神奈川若ハ横濱ヨリ横須賀又ハ観音崎近傍便宣ノ地へ布設スルハ陸海両軍略上最モ必要オク可ヲラサルノ事項ニシテ大ニ両軍勝敗ノ関係スル所ニ之有之候條、汽車鐵道布設ノ義至急御詮議有之度此段請閣議候也

陸軍大臣 伯爵 大 山 巌
海軍大臣 伯爵 西 郷 従 道

内閣総理大臣 伯爵 伊 藤 博 文 殿


の記述が見られ、行間に朝鮮半島を巡る当時の日清間の緊迫感が緊急性が窺いさせられる。

内閣総理大臣 伊藤博文(いとう ひろぶみ)(天保12年(1841年)10月16日~明治42年(1909年)10月26日)から該鉄道建設調査を命ぜられたのが逓信省鐵道作業局長官 井上 勝(いのうえ まさる)(天保14年(1843年)8月25日~明治43年(1910年)8月2日)である。

井上長官は調査結果を報告書に纏め内閣に回答した。


横須賀鐵道線路布設之義ニ附復命

右線路ノ撰定及費額調査為致候処横濱ヨリ東海道ヲ戸塚驛ニ至リ此里拾壱里延長合テ弐英里 左折シ鎌倉ニ入リ雪ノ下ヨリ長浦ヲ経横須賀ニ達ス此里程拾壱英里 延長合テ弐拾英里也 又他ノ線路無トキニ非ラスト雖モ難易比較シカ難ク結局該線ヲ以テ最良ノ経路トス 此間著シキ工事ハ隧道ニシテ其延長凡ソ拾弐参町 其他海岸埋築及橋梁ヲ架設スル等一切ノ費額壱英里ニ附凡四萬圓 合計八拾八萬ノ見込ニ有之 乍去横濱戸塚間ハ将来幹線ト見做 夫ヨリ横須賀ニ至るルノ間即チ全ク支線タル分多ク隧道ノ工事等有ルヲ以テ里程八本支等分ト雖モ其支線ノ負フヘキ費額ハ五拾萬圓計ニ可達歟 此ノ概算ニ基キ布設ノ可否御決議ニ相成候ハ直ニ実測取掛リ線路設置等ノ手順可相立右復命候也


政府の回答書では、

曩ニ陸海軍両大臣ヨリ其筋ヘ建議ノ趣旨ニ基キ同鐵道ヲ布設センカ為実測スル所ノ結果ハ其一端ヲ東海道鐵道戸塚藤澤間両驛間ニ起シ左折鎌倉ニ出テ長浦港ヲ経テ横須賀ニ達スルノ一線ヲ得リ 此間知性峻嶮ニシテ海濱ニ接シ工事極テ易カラス従テ山ヲ鑿チ海ヲ填ムルノ労賃少カラスト雖モ線路ハ稍直行ニ近ク然レト述カ如ク労賃ノ点ニ至リテ猶深ク講窮セサルへカラサルモノ有 他ノ数線ヲ試測スルニ更ニ迂回ニシテ工事一層困難ナルカ上労賃益加リ之ニ比スルニ本線ノ費額多ラスシテ径捷且水雷局所在ノ長浦港ヲ経ルニノ便利有ルニ依リ到底本線ヲ以テ最良ト見込撰定致候 尚横須賀ヲ貫テ便利ヲ計ラント欲セハ同所全体ノ市街ニ大改革ヲ与ヘサルヲ得スシテ其費用ノ多キ僅ニ家屋移転等ノ類ニ非サレハ曾テ確定スル所ノ四拾五萬圓乃至五拾萬圓ノ支持スル能ハサル所に附 目下此儀ハ計画不致候間 本線路ハ暫ク水平営ノ東南端ニ止メ候テモ船渠ノ用品及軍港ノ需要品ヲ運搬スルニ充分ト存候ニ附他ニ異議無ク弥本線ヲ採用スルニ決定セハ同水兵営ヲ経過セサルヲ不得モ幸ニ鑚鑿ノ地形ヲ変更スルニ要セスシテ二線ヲ布設スルニ不過候附 御承認相成リ候 図面相添ヘ此段及御照会候也

明治弐拾年十一月弐拾四日

逓信省鐵道作業局長官 子爵 井 上 勝

陸軍大臣 伯爵 大 山 巌 殿
海軍大臣 伯爵 西郷従道 殿


此れらを加味検討した結果、資金不足を根拠に大蔵省の同意が得られず、取敢えず東海道線建設資金内から45万円を流用して建設工事案が設定される。

他方、東海道線横濱-國府津間は明治20年(1887年)7月12日に開業したが、開通当時は戸塚-藤澤駅間に大船駅は存在せず、建設計画当初の予定では藤澤駅を起点に建設する計画だったが、鵠沼付近での人口密集地通過や長大隧道建設を要する事が判明し、横須賀線設置が政府内に於いても緊急性を要する存在と認識判断され、明治21年(1888年)11月1日に鎌倉郡小坂村字大船付近に信号所を設置し横須賀方面に分岐させる事に決定し建設工事が開始された。

然るに、路線設置先は三浦半島を縦断するものとなり数ヶ所の隧道設置を余儀無くされる。

殊に、名越隧道は掘削開始直後から三浦半島特有の砂岩、疑灰質岩、泥岩等々が混在する劣悪地質に工事は難航を極め、明治21年(1888年)7月30日には掘削工事中に落盤事故も発生し死傷者が生じた。

また、当時は明治維新の王政復古から未だ醒めやらぬ過激な国権回復思潮が盛んな時代背景から世間では此れに伴う仏教軽視たる廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風が満ち満ちており、古刹たる臨済宗圓覺寺と言えども路線通過の為には例外的存在では無く寺側は有無を言わさず例外は認められず、泣く泣く外苑たる白鷺池(びゃくろち)は過半が埋没させられ池と総門が分離を余儀無くせざるを得ない状況下に置かれた。
また、鎌倉も鶴岡八幡宮参道で約600年の歴史有する段葛(だんかずら)をも例外とは成り得ず、壱之鳥居から弐之鳥居に至る区間が撤去整理され跡地は線路に向かう緩い勾配頂点上に八幡踏切が設置された。

また、海軍当局は横須賀駅に就いて白浜村(現在の 稲岡町)に設置を希望したが、住宅密集地通過と区画整理とを要する為に逸見村で決着を見る。

然して、大船-横須賀駅間は明治22年(1889年)1月に工事がほぼ完工し同年6月18日に正式開通した。

然し、何事にも例外は存在するもので、横須賀海軍工廠ドックで建造中の国産通報艦 八重山(1600トン 最大戦速20ノット) の進水式に合わせ、明治天皇が進水式に臨席あらせられる事になり、正式開業に先立つ同年3月12日に新橋-横須賀間に御召列車が運転され此れが横須賀線運転史の嚆矢になる。

開業当初は大船-横須賀間の4往復45分で平均時速21.6キロ運転だったが、同年7月1日に東海道本線全線開業に伴うダイヤ改正で6往復に増発され、更に、明治23年(1890年)1月14日改正で若干スピードアップされ平均時速27.8キロ6往復35分運転となる(平成22年現在、同区間最速列車運転時間は20分)。

横須賀線は当時から列車運転本数が多い事から、明治35年(1902年)9月25日に、我が国最初の通票閉塞方式が採用され安全面に於いて寄与する。
然るに、明治42年(1909年)1月13日早朝、扇ガ谷隧道横須賀方坑門付近で旅客列車同士の正面衝突事故が発生し、速度が遅かった為に死者こそ出さなかったものの多数の重軽傷者を出す。
事故原因は鎌倉駅信号担当助役が大船-鎌倉間に列車運行中たる事を失念し且つ列車時刻確認を怠り通票閉塞機の故障と独断し不正操作し通票を取出し上り列車機関士に交付した為で、大正5年(1916年)11月29日には東北本線三澤付近で同様の事故が発生し多数の死傷者を出す惨事が発生したが、三澤事故は必ずしも鎌倉列車正面衝突事故が教訓にならなかった事を証明する。

現在の江ノ電の前身たる江之島電気鐵道は藤澤停留所を起点として漸次路線を延長させ明治40年(1907年)8月16日に鎌倉大町停留所に達したが、更に、八幡宮弐ノ鳥居前付近まで路線延長と停留所設置を計画し工事資金の点で横須賀線とは平面交差を希望したが、当時の鉄道の監督官庁たる鐵道院と路面軌道線の監督官庁たる内務省とが列車運行の安全面の観点から難色を示し一時は暗礁に乗り上げるかに見えたが、最終的に鐵道院が2/3、残り1/3を江之島電気鐵道が工事資金負担する事で合意し、横須賀線は鎌倉駅を境に立体交差と築堤化される事で決着を見て、明治43年(1910年)1月に工事起工し僅か4ヶ月で竣工した。

横須賀線は開業後、輸送量の増加に拠り複線化が推進される。
各区間複線化工事竣工は、

大船-鎌倉間 大正5年(1916年)9月13日

鎌倉-逗子間 大正6年(1917年)3月

逗子-沼間間 大正3年(1914年)8月12日

沼間-田浦間 大正9年(1920年)10月19日

田浦-横須賀間 大正13年(1924年)12月25日

また、大船-鎌倉間複線化と同時に予てから各方面から切望されていた東京-横須賀間の直通運転が開始され、東京-大船間は東京-國府津間近距離列車に併結切離で運転される。

また、横須賀線は大正13年(1924年)完成を目処に1500ボルト電化が決定し、明治期に構築の隧道では口径不足で架線吊張が困難な為に、隧道口に臨時信号場を設置して単線運転しながら明治期建築の隧道口径拡大工事が施行したが、不幸にして工事途中に関東大震災に遭遇する。

関東大震災発生時、横須賀線内で鉄道関連施設の破壊沈下等々、列車では鎌倉駅構内停車中の第32貨物列車や沼間隧道内走行中の第514旅客列車は隧道内で脱線転覆等の被害を生じ列車に乗車中の皇族 華頂宮博忠王殿下をはじめ乗客職員に少なからぬ死傷者を生じた。

特に、横須賀線関係では修学旅行で静岡から軍港見学の為に横須賀訪問中の静岡県立高等女学校(現 静岡県立静岡城北高等学校)生徒が横須賀駅下車直後に昼食前の点呼中に傘を忘れ駅に戻った生徒1名を除き集結中の教師生徒200数名と列車から下車直後で崖下を通行中の一般旅客100数名合計300名余の背後に聳える見晴山が高さ30メートル、厚さ20メートル、長さ415メートルに亘り崩壊落して全員生埋めになり、市内他所の生存者救出と道路復旧を最優先した為に崩壊現場は約3週間放置され猛烈な悪臭と共に崩壊した土砂上を無数の蠅が蝟集する惨状を呈した。

横須賀線は全線に亘り震災被害が生じたが、取敢えず9月5日に大船-横須賀間全線で復旧工事が開始され先ず単線で復旧された。
然し、田浦-横須賀間は側面崩落や吉倉隧道坑門破壊等々の被害が著しく他区関より開通が遅れる。
此の辺の描写は作家 内田百間(うちだ ひゃっけん)(明治22年(1889年)5月29日~昭和46年(1971年)4月20日)に依る短編小説『進水式』の記述に震災前後の横須賀駅前の状況が描かれている。

大船-鎌倉間 9月9日復旧

鎌倉-逗子間 9月10日復旧

逗子-田浦間 9月13日復旧

田浦-横須賀間 9月25日一旦復旧、10月11日豪雨の為に再不通、10月25日再復旧


関東大震災復旧を最優先にした為に遅延していた電化工事は大正13年(1924年)4月に再開され翌年4月に完成する。
かくて、大正14年(1925年)12月13日の東京発横須賀行最終列車より蒸気機関車前部に電気機関車を連結する電蒸運転が開始された。

北鎌倉駅は地元から長年駅設置を求める声が出ていたが、具体的には、大正15年(1926年)4月に、当時の圓覺寺住職 古川慧訓(ふるかわ けいくん)(慶応3年(1866年)4月4日~昭和31年(1956年)8月29日)、及び、建長寺住職 菅原時安(すがわら じあん)(明治5年(1872年)12月8日~昭和36年(1961年)3月6日)、両山信徒代表 栗田傳兵衛の連署で鐵道省に対し請訓書が提出された事で具体的動きが始まる。

即ち、

        請訓書

当地ハ大船驛ト鎌倉驛トノ中間ニ位シ其ノ何レニ乗降スルモ廿五町及至廿七町ノ長距離ヲ徒歩或ハ自転車ニ依ラサルヲ得ス其交通不便ノ為ニ夏季休暇ヲ利用シテ建長、圓覺両山ニ参議シ座禅修業セントスル学生ハ年々数百ヲ下ラス 然レトモ鐵道不便ノ為鎌倉ノ一部ノミヲ見テ直チニ江ノ島方面ニ向ツテシマウノテ当村ニ夏ノ間タケテモ簡易停車場ヲ設置サレタク此段図面相添テ請願候也
尚圓覺寺ハ横須賀線布設当時多大ノ犠牲ヲ拂フテ同寺境内ノ横貫ヲ承認シ鐵道ハ山門ノ中ヲ通リナカラ鐵道ノ不便ヲ嘆スル事多年縣道モ亦同寺内ヲ貫通スルヲ以テ恰モ付近村落ノ中心点ヲナス是同寺側ヲ以テ停車場ノ最好適地ナリトス

文面後半から横須賀線開通の際に於ける圓覺寺側の恨み辛みが読み取れる。


北鎌倉駅は紆余曲折を経て昭和2年(1927年)6月1日に乗降場として開設されたが、此の為に小坂村山ノ内の栗田傳兵衛と圓覺寺が所有する土地計72坪を鐵道省に無償寄贈して駅が開設された。

昭和5年(1930年)3月15日より横須賀線は全面電車化されたが、電車化当時は横須賀線専用車輌製造が間に合わず、已む無く、蒲田、及び、東神奈川電車区から京濱線用モハ31型やサロ18型を一時転用させ使用したが、客車時代のクロスシートに慣れた人々の目線にモハ31型のロングシートは沿線利用者の顰蹙と不評を買うが、同年10月より此れらは漸次、長距離用クロスシート設置のモハ32型、サロ45型、サロハ46型、クハ47型、サハ48型など横須賀線専用車輌が新製配置され交換運用される。
余剰となったED51型、ED53型電気機関車は勾配用に歯車比変更の上、中央本線浅川(現 高尾)-甲府間に転用される。
また、此れと同時に、大森駅停車は京濱線電車に限定され、程ケ谷駅(現 保土ヶ谷駅)、及び、戸塚駅は横須賀線電車専用駅となり東海道本線列車は通過扱になる。

東京市民や横浜市民にとって明治期から大正末期まで芝浦、大森、扇島、鶴見等々が手近な海水浴場地とされたが、第一次世界大戦後に於ける我が国の京浜工業地帯成立と共に重化学工業発達に依り此れらの地は大工場林立の場と化し急激な水質悪化と共に海水浴に不適当とされるに至った。
他方、代替地として一躍脚光を浴びたのが逗子であり、此の為に横須賀線は盛夏期は海水浴客輸送の為に超満員状態が現出する事態に至り、昭和3年(1928年)7月より東京-逗子間に海水浴臨時列車が運転される様になった。
特に軍部は健康増進も兼ね海水浴を奨励した為に、伊勢橿原両神宮参拝と共に戦時中に於ける数少ない公的認定の娯楽対象となり戦争末期の昭和20年(1945年)を除き逗子の街は大混雑を呈する。
此れに伴い、湘南逗子地区に於ける新聞発売量が通常時期の50倍を超える事態を生じせしめ、此の膨大な量の朝刊輸送の為に昭和7年(1932年)9月1日より5両編成の専用荷物電車が深夜運転され、モニ3型木造荷物専用電車を電装解除中間車化改造のサニ27型なる横須賀線専用新形式車輌が誕生した。

昭和9年(1934年)12月にワシントン軍縮条約失効以降後に於ける新型戦艦建造を見越し、横須賀市蠣ヶ浦(かきがうら)に大型ドックが建設される事になり、翌昭和10年(1935年)7月に工事起工し、昭和15年(1940年)5月4日に第6ドックが竣工した。
因みに、此のドックが如何に巨大たるか現在でも米巨大原子力空母が極東地区に於いて検査修繕が可能なのは横須賀第6ドック以外存在しない事からも明白である。
軍令部作戦課の要求に依り海軍省は46センチ主砲3門9本搭載のポスト・トレッドノート型超大型戦艦4隻建造を決定し、此れに基づき大和、武蔵、信濃、紀伊が建造され横須賀では信濃が建造されるが、建造中途にしてミッドウェイ海戦(昭和17年(1942年)6月5日)が勃発し帝國海軍空母4隻を喪失した事から、急遽、戦艦から空母に艦種変更され、昭和19年(1944年)11月19日に竣工し呉に回航する為に11月28日に横須賀を出航するが、翌29日に熊野灘沖に於いて米潜水艦の魚雷攻撃が原因で沈没し僅か10日余の悲運の軍艦として記憶される。
此れら対英米戦が想定され横須賀の街は緊迫感が募り、防諜上の理由から横須賀線逗子-横須賀間は横須賀湾内を望見されぬ様、海側の窓の日除けは全部降下させられ車内には制服憲兵が警乗した。
同時に田浦-横須賀間で横須賀湾が望見可能該当ヶ所にコンクリート塀が設置される。

帝國海軍聯合艦隊司令長官 山本五十六(やまもと いそろく)(明治17年(1884年)4月4日~昭和18年(1943年)4月18日) 海軍大将は、ソロモン諸島方面を前線視察中に米海軍に拠り暗号が解読され予定行動が事前に露見していた事から待伏せに遭い機上に於いて米戦闘機の機銃掃射を受け戦死を遂げる。
山本海軍大将の戦死は正式発表まで伏せられ、御霊は聯合艦隊旗艦 戦艦武蔵 に拠り横須賀軍港に搬送され、横須賀到着を待って同年5月21日15時に政府より正式発表され特旨を以って元帥の称号を賜る。
翌22日に、横須賀駅から東京駅まで山本元帥の御霊を搬送する特別電車が運転される。

横須賀線は横須賀-久里浜間が開通した昭和19年(1944年)4月1日に非常決戦大綱に基づき全国近距離列車への2等車連結を廃止し全列車共に3等車のみの運転となり2等車は3等車4扉サハ78型に改造すべく大井工機部に入場改造中に海軍より将校乗車の為に2等車再連結が要請され4扉化改造工事は即座に中止され同年8月16日から横須賀線電車に2等車連結が復活したが、2扉サロハ46型は全車4扉サハ78型への改造工事着手済だった為に再連結は断念された為に全列車に2等車を連結する事は不可能な状態であり、概ね、3本に1本の割合で2等車が連結された。

横須賀鎮守府にとって昭和20年(1945年)8月15日の大東亜戦争終結は横須賀鎮守府にとって根本を揺るがす大事であった。帝國陸海軍はGHQ命令で解体させられ、新たに占領軍が横須賀に駐屯して来たが、進駐と同時に2等車は進駐軍に依り全車徴用され、運輸省鉄道総局は昭和21年(1946年)10月2日附で横須賀線の2等車は全車進駐軍専用車として日本人は完全に締め出し乗車不可となる。
然し、2等車が絶対的に不足していた為に、関西からクロハ69型を転入整備させた他、些か泥縄的ながら3等車サハ48型をロングシートに改造して代用2等車として使用した。
後に、昭和24年(1949年)7月30日より2等車に空席がある場合に限り日本人の乗車も認められる様になるが、但し、日本人が乗車着席している状態で進駐軍の米将兵が立っている時は席を譲り2等車から退車する旨、屈辱的表記が券面裏に記述されていた。

終戦直後から激増した乗客と故障が原因で激減した列車本数とに拠り、横須賀線は列車本数の確保すら困難な状況下に在った。
電車がモーター故障の為に自走不可能になり、已む無く、電車を電気機関車EF53型機に牽引させ最低運転数を確保する。東京の国電では他では中央本線国立-浅川(現 高尾)間で実施し、有余の車輌の整備を実施する。

昭和25年(1950年)に朝鮮半島に於いて朝鮮動乱勃発の頃、三鷹電車区配置の3扉セミクロスシートのモハ51型が関西に転出し、代りに、大阪からモハ42型、及び、モハ43型が田町電車区に転入し横須賀線で使用される。
同時に、モハ32型は身延線富士電車区や飯田線豊橋機関区に転出する。
また、此の年に、現在も伝統を残す車体塗装が横須賀線色に変更される。

久々に横須賀線専用車として昭和26年(1951年)1月に3扉セミクロスシートのクハ76型、モハ70型、及び、2等車サロ46型(改番後 サロ75型)が新製される。

昭和32年(1957年)5月14日17時22分頃、東逗子-逗子間池子弾薬庫前踏切(現 池子踏切)に於いて安全確認を怠り踏切内に進入した米陸軍第18憲兵隊所属トラックが折りしも進行中だった久里浜発東京行7両編成電車と衝突し、先頭車クハ76005型は脱線大破し、米軍兵士2名死亡、乗客乗務員米軍兵士15名が重軽傷する大事故が発生した。
大破したクハ76005型は台枠部も損傷し廃車も危ぶまれたが、大井工場に於いて台枠部以上を全金属車体で新製し車号もクハ76351型として再生した。
該事故は、前述の明治42年(1909年)1月13日早朝に扇ガ谷隧道横須賀方坑門付近で発生した列車正面衝突事故以来の大事故であり、関東大震災災害を除いた横須賀線内で発生した数少ない列車重大事故である。




表紙は第1円覚寺踏切から円覚寺境内を見る

2010/09/04 10:09:03

東京スカイツリー展望台に燈りが ☆首都高速中央環状線から...

東京スカイツリー展望台に燈りが ☆首都高速中央環状線から

-首都高速中央環状線は、東京都の、品川区の大井JCTから渋谷区・中野区・新宿区・豊島区・板橋区・北区・足立区・葛飾区を経由して江戸川区の葛西JCTに至る、首都高速道路の路線である。

起点側から、中央環状品川線(大井JCT - 大橋JCT)・中央環状新宿線(大橋JCT - 熊野町JCT)・中央環状王子線(板橋JCT - 江北JCT)・東側区間(江北JCT - 葛西JCT)の4つの区間から構成されている。

首都高速都心環状線の外側に位置する環状線である。副都心とのアクセス、および各放射線の中央付近を接続する役割を担う。また、都心から約8km圏内の、渋谷・新宿・池袋などの副都心エリアを環状に連絡するとともに、放射道路を相互に連絡する、首都圏の3環状9放射の一番内側の環状道路(東京外環自動車道・首都圏中央連絡自動車道とともに3環状の一つ)と位置づけられている。

葛西JCT - 江北JCT(東側区間)
東側区間は、中央環状線の中でも最も早く開通した区間である。大半の区間が荒川の堤防上に建設されており、用地買収の必要がなかった事は早期開通にとって有利であったが、水防を最優先として他目的の利用を極力抑える河川行政との調整は容易でなかったとされる。

堤防上に建設された背の高い高架道路であるため、視界を遮るほどの遮音壁はほとんど設置されていない。道路西側は荒川、東側は高層建築物が少ない市街地が広がっている。密集市街地にネットワークを形成している首都高速では例外的な、きわめて開放的な眺望を得られる区間ではあるが、同時に冬を中心に強い横風にさらされることも少なくないため、走行には注意が必要である。

-首都高中央環状線については・・
http://www.c2info.jp/

東京スカイツリーについては・・
http://www.skytree-obayashi.com/
http://www.tokyo-skytree.jp/

東京スカイツリー関係のトラックバック先は・・
http://4travel.jp/traveler/maki322/album/10463292/

2010/09/03 10:09:55

モスクワ・モーターショー2005:何があったか?ストリップ!...

2005年夏、ロシア、欧米、アジアの自動車関連企業が一同に会するだろうモスクワ・モーターショーを2日間、見に行きました。

仕事のほうは順調に進んで、成果を収めたので問題ない。
ロシア自動車メーカーはじめ、全世界のメーカーがここに集まった。
のだが、日本の自動車メーカーはスズキのみ。
あのトヨタ、ホンダ、ニッサン、マツダetc.は出品していないのだった。

ロシアは2005年当時で、すでに約3千万台の自動車保有台数を誇る、レッキとしたモータリゼーション大国なのだ。
その殆んどが余り質の良いとは言えない、ロシア車ではあるが。

1990年代後半あたりから石油+天然ガス資源をバックにした豊富な資金で、ロシア経済は高成長時代に入っていて、日本の中古車輸入はうなぎ上りで、2005年時点で、今や日本からの中古車輸出先のトップとなっている。

日本車の占有率は、極東地域では90%以上、中央シベリア地域で約50%、全保有台数の7割が走っているヨーロッパロシア地域でさえ25%近くを占めている2005年だった。
(欧州車はドイツ車中心に30%)

対ロシア貿易相手国は、ドイツ、中国、イタリア、オランダ、アメリカであり、日本は非常に出遅れていた。
その出遅れが、今回のモスクワ・モーターショーに如実に表れていたのだろう。
でも、トヨタは2007年末から、サンクト・ペテルブルグで現地生産工場開始を計画していたので、さすがトヨタは先見の明があるものだ、と思っていた。

当旅行記はそんな経済のお話しではなく、2005年当時のモスクワ・モーターショー会場内で起こっていた、真実をお伝えするものです。
これを目にして、明るい、アッケラカンとしたロシア人の一面を認識したのでございます。
ロシア人は決して、冷たくはありません。

熱いのです。

2010/09/02 09:09:43

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